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盛岡市先人記念館で浅野七之助の企画展 在米ジャーナリストの足跡たどる

「日米時事」の紙面などが並ぶ一角。「せっかくなので記事をじっくり読んでもらいたい」と坂本さん

「日米時事」の紙面などが並ぶ一角。「せっかくなので記事をじっくり読んでもらいたい」と坂本さん

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 盛岡市先人記念館(盛岡市本宮)で現在、第70回企画展「在米ジャーナリスト 浅野七之助の軌跡」が開催されている。

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 浅野七之助は1894(明治27)年に現在の南大通2丁目に生まれた。同展は今年で生誕130周年を迎えることから企画。浅野の生涯を戦前、戦中、戦後に分け4章構成で紹介し、本人の身分証や持ち物、書簡、当時の新聞などの資料を展示する。

 展示の大きな柱となっているのは、戦中のトパーズ戦時転住所での暮らしと戦後の活動の2つ。浅野は新聞社の特派員として1917(大正6)年に渡米。働きながら英語を学び、サンフランシスコの邦字新聞「日米新聞」に入社した。

 太平洋戦争をきっかけに日本人は「敵性外国人」とみなされ、浅野は日系人を収容する「戦時転住所」のうち、ユタ州のトパーズ戦時転住所に移動。そこでは日系人同士の言い争いや暴行事件が起こっていたといい、これを収めるための話し合いの中で、浅野は日本語の図書館の設置を提案する。トパーズ戦時転住所内で発行していた「トパーズ新聞」にも、浅野は日本語図書館に関する記事を書いていた。

 担当学芸員の坂本志野さんは「敵国の言葉である日本語の図書館の必要性は低かったが、浅野さんは日本人の精神的な豊かさや心の余裕を守るためにも必要だと考えていた。日本語図書館が設置されるとすぐに本棚が空になり、争いも減っていったようだ」と話す。

 終戦後、浅野はサンフランシスコに帰還。サンフランシスコにあった邦字新聞は全て廃刊していたことから、浅野は機材と仲間を集め新たに「日米時事」を創刊。同新聞の発行と、日系1世の権利確立、日本の救援活動をライフワークとし、物資不足が加速する日本へ支援物資を送る活動や在米日系人の帰化権獲得に向けた活動などに取り組んだ。

 浅野は1950(昭和25)年に朝日新聞の社賓として32年ぶりに帰国。盛岡に戻った時には大勢の人が迎えたという。その後も1964(昭和39)年の東京オリンピックの取材や、1970(昭和45)年の岩手国体に招待されて帰国している。1993(平成5)年に亡くなるまで、帰化権を取得することはなく、日系人社会のために尽くしたという。

 坂本さんは「浅野さんのことを詳しく知る市民は少ない。実は私も先人記念館に来てから深く知った。日本人が米国で暮らすのが難しい時代に渡米し、日本人と米国の架け橋としなって活動してきた盛岡出身者がいることをもっと知ってもらいたい。もし当時の彼の活動を知る人がいたら、話を聞かせてほしい」と呼びかける。

 開館時間は9時~17時(入館は16時30分まで)。月曜(祝日の場合は翌日)、最終火曜休館。入館料は一般=300円、高校生=200円、小・中学生=100円。12月1日まで。

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